1日目C
やまと
さて、次は霧山城を目指します!
榊原温泉の後は一路霧山城のはずだったのが、ルーブルとかいろいろなあれがあれしてとんだ道草を食ってしまいました。
なんだかんだで2時間ぐらい費やしちゃったよ。
今度こそ霧山城を目指しますよ。
歴史を知らないかわいそうな理系の人々のために少しだけ説明すると、
霧山城(霧山御所)は伊勢国司の北畠氏の本拠です。
北畠一族は建武の親政の時の後醍醐天皇に味方して有力武将となり、その後、信長に滅ぼされるまでの200年余りにわたり、
伊勢を支配した一族です。
考えてみると、
今の東京は、徳川幕府が1603年に開かれて以来、現在まで約400年栄え続けているのに対して、
伊勢は少なくみても西暦700年代に奈良のあたりに都ができてから鎌倉幕府ができるまでの500年余りに渡って、
日本有数の都市だったわけで、
その後も南北朝時代に南朝を支えるビッグ・シティだったわけだから、繁栄をしていた期間の長さで言ったら東京より上なのだ。
そういう伊勢国を支配するということは、北畠一族はそれなりのパワーを持っていた一族だ。
と、思っていたらヤマトというかっこいい名前の交差点があった。
近くを通りがかったおにゃのこ
あおやま
さて、何かこのあたりには「青山高原」というところがあるらしい。
手元の地図によると、「なだらかな高原地帯に広がる関西屈指のリゾートエリア」だそうだ。
聞いたこともない名だな。
普通、高原地帯のリゾートといえば軽井沢だとか山中湖とか那須だとかトマムとか富良野とか留寿都だとかと相場が決まっているものだが、
関西の人々はこんな聞いたこともないところで高原気分をエンジョイするものらしい。
そう思いながらブラブラ走っていると、急に道が違っていることに気がついた。
どうも先ほどのヤマト交差点で通行人に気を取られて道を誤ったらしい。
しかたがないからUターンを決めて別の道を行くことにした。
北畠ダンサー系 列伝1
暇だから北畠についてもう少しお勉強しよう。
後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒のため挙兵したときに協力したのが、
かの有名な楠正成と新田義貞と北畠くんだ。
1330年ごろのお話だよ。
はじめのうちは足利尊氏も仲間だったが、鎌倉幕府がつぶれて建武の親政が始まってまもなく、関東で鎌倉幕府の残党が叛乱を起こす。
鎮圧に向かった足利尊氏は、関東に着いたところで叛乱軍を指揮下において自ら叛乱軍のトップの座についた。
まあ、イメージ的にはあれだ、
メールシュトローム作戦で滅亡したティターンズの若手残党がペズンで叛乱を起こしたのを鎮圧に行ったエイノー提督が寝返ってニューディサイズの首領になったような感じだね。
で、その叛乱軍をやっつけに行ったのが、美少年 北畠顕家とその父北畠親房だ。
親父のほうはもともと政治家として有名で、元をたどれば源氏の分家の末裔なわけだが、天皇の信頼が厚かったので、
源氏のトップの座を任されたほどの男で、日本の孔明と呼ばれた男である。
彼は、日本が南朝派と北朝派に分裂してしまったため、
南朝の後醍醐天皇側の政権が正統な政権であるということを明らかにするために、
『神皇正統記』を書き上げ、
南北の政権どっちに味方するか決めあぐねている全国の武士豪族たちに、自分たちの南朝こそ正義であると説いた。
イメージ的にはあれだ、孔明の出師の表みたいな感じだ。
美少年のほうはどのぐらい美少年だったかというと、
このぐらいだ。
この美少年北畠顕家はまだ20歳そこそこのヤングボーイだったが、
朝廷軍を率いて何度も何度も足利尊氏軍を叩きのめし、
楠正成が戦死した後は、朝廷軍のヒーローだった。
しかし奮戦むなしく、矢尽き刀折れ、21歳の若さで戦死した。
死の直前に北畠顕家は、後醍醐天皇に対して、
なぜ′囎垂フ親政が東国武士に受け入れられずにいるのかをサルでもわかるように書いて説明した男であり、
武士の気持ちもわかっていながらなおも天皇に忠節を貫いたまっこと尊皇義士の鑑であった。
長男の北畠顕家は戦死したが、次男の北畠顕信は生涯を通じて南朝のために戦い、
三男の北畠顕能は劣勢となって吉野に亡命政権を樹立した南朝のもとで伊勢国司となった。
この北畠顕能以来、北畠一族は代々伊勢国司となって伊勢を支配し南朝を支え続けた。
余談であるが顕家の息子の北畠顕成は村上師清と名を変えて、あの村上水軍の創始者となった。
まあ、こんな話をアレ風に書くとこうだ。
北畠雅家
|北畠師行
||観覚上人:浄土宗を開いた法然の師
|北畠師親
||北畠親房(1293):源氏長者:『神皇正統記』
|||北畠顕家(1318):21歳で戦死
|||北畠顕成:村上水軍の祖
||||浪岡顕通:津軽浪岡氏の祖
|||北畠顕信
|||北畠顕能:伊勢国司
||||北畠顕泰:二代目伊勢国司
||||木造顕俊:木造家の祖
くもで
しばらく行くと、 せきのみや という少し開けた駅前に出た。
ここはかつて白山町という寂れた田舎町があったところで、今は津市に併合されてしまってさらに寂れている。
しかし風景は今までの「普通のよくある山の中」から一変した。
雲出川沿いに美しく開ける渓谷が現れたのだ。
それにしても雲出川は中勢と南勢を隔てる川だが、「雲出川」なんて、とても素敵な響きの名前だと思わない貝?
四国の四万十川みたいに有名でもなんでもないけど、とても綺麗な川で、ワサビが自生しているぐらいだ。
日の加減もあるけど、渓流に転がる石や岩は真っ白。理由は理系の人に任せる。
めちゃくちゃでかい、家一軒分よりもまだでかい畳岩とかが川底に見えていて、このあたりが岩山であることがわかる。
きっと川魚とかも美味しいんだろうね。
いえき
このあたりはいえきっていうんだ。
※いえき小学校HPより抜粋 http://www.mie-c.ed.jp/eieki/ ←リアル幼女とメールできるよ
(http://www.mie-c.ed.jp/eieki/ieki%20tizu.htm もかなり面白い)
↓信長の野望にも出てこないような地侍の物語。
http://www.mie-c.ed.jp/eieki/myhome/iekimonndonosyou.htm 家城昔話
主水正は、
「今こそ 主水正の力を見せてくれるわ!!」
と叫びながら、敵の先頭軍の中へ飛びこんでいきました。砕け散るまで戦え!
美杉
少し行くと分岐があって、
宮ヶ野ダムという桜の名所があった。
ここを過ぎると、少し谷が深くなる。
もう美杉村だ。
名前からしていかにも実在しないっぽい名前だけど
これが実在するから困る
鬼首村とか横溝精子に出てくるのは大体実在しないのにね
ここらへんには
名松線というJRの線路http://www.activegamers.com/meisho/index2.htmがある。さっきから貼っている単線非電化のローカル線だ。
キハ58とか57とか懐かしいね
名松線の松は松坂だね
名は名古屋かと思ったら、伊賀地方の名張のようだ。
美幸線が仁宇府までだったのと一緒だね
上の写真は岩手県じゃないんだよ三重県だよ
(写真は全部拾い物だよ!)
徐々に深くなる谷山をのぼってゆく。
いいかんじだね。
天気もいいし、のどかだよ。
炎谷
さて、「伊勢鎌倉」を過ぎてどんどん人里はなれてくるんだが、突然
閉鎖された遊園地が出現。
本当に閉鎖されているのかどうかは不明。
そしてここを過ぎると道が少し狭くなる。
役場の前を過ぎて左に入る。
林業キタコレ
杉ばっかりだと思っていたら、
やっぱり切ったり売ったりしていたか。
村の名前になるだけあるね。
花粉症だとつらいね。
実際、なんだかこの日は少し花がムズムズしたよ。
山道を登りきると、国道に出た。368号だ。
国道といってもこんなかんじ。
この道はかつての「伊勢本街道」。大和国と伊勢国を結ぶ街道で、険しい峠が多い難道として有名だったそうだ。
まあどんぐらい難道かというと、あとでわかる。
まあ、いまではアレだけど、南北朝時代は北畠選手の城があったりしたからめっちゃ人通りが多かったようだ。
上の地図ではもうすぐ「飼坂トンネル」だが、このトンネルは平成6年に開通したばかりで、
それまでは車は上の地図の「霧山城跡」のちょっと上を通る比津峠を通って迂回していたらしい。
その迂回路は県道666号だ。まさに獣道。
一方、本道は、地図の「飼坂トンネル」の字の少し上の点線がもともとの峠道で、
そこには「首切り地蔵」やら「腰切り地蔵」なるものがあるらしい。
もう名前がこえーよ
それはそうと、国道に出ると、雪が積もっていた。
その先は飼坂トンネル。
結構長いトンネルだった。
通ったときはなんとも思わなかったけど、上のなんたら地蔵を知ってしまった後はなんだか怖いね
トンネルを抜けるとこぢんまりした交差点があって、
案内看板が。
なかなか賑やかなところらしい。この多気というところは。
さすが数百年の都だ。
看板ではちょっとわかりづらいけど、まんなからへんの上のほうにあるのが「北畠神社」とその上に「霧山城跡」。
かなりガッツリした観光スポットのようだ。観光バスとか土産物屋とかうじゃうじゃいたらちょっとウザイね。
続く